昭和56年06月01日 月次祭
真のおかげを愈々、広く深く頂きそして、表して行きたいと思います。本当の事真の信心というのですから、真から真を追及して参ります。それが分かります。それが自分のものになって参ります。次第に本当のおかげが現れてくる。いわゆる貧争病のない世界。真善美に輝く世界。そういうおかげを頂く事の為に、様々な信心修業をさせて頂くと言う事に思います。けれどもよりもっと本当な事は、そういう信心により愈々自分の、本心の玉が磨かれ改まりに改まらせて頂いて、本当な生き方が出来るようになる。
愈々心に光を頂き魂が光り、いわゆる輝くようになってくる。ここ二、三日、繰り返し頂いておる事でございますけれども。本当の事を言うたら今までの事は、嘘のような感じがするですけどね。本当の事を言うたらこの世はあの世の事のために、この世はあるのだと言う事。もうあの世じゃどげんなったっちゃ良か。まぁだ最近の仏教などでは、もう地獄極楽と言う様なものは、もう無いものとしておる訳ですね。地獄極楽の事など言うたら、もう程度が低いと言う様にさえ申されます。
それがいかにも本当の様ですけれども、事実はそうではない。最近ここ二、三日の合楽の信心を頂きますと、この世はあの世へのための今日でありこの世であると。だから私どもが、この世に生を受けたと言う事は、段々本当な事から本当な事が分からせて貰うて。それこそ心に光を力を頂かせて貰う。その光がその心がそのまま、御霊の世界あの世に行く。ですから私どもが様々な難儀と、こう申します問題をもっておりますが、その問題を通して力を頂き光を頂いて行くという、いうならば手立てなのですから。
それは素晴らしい事でありその事は神様のいうなら、神愛の現れですからお礼が言えれるようにならなければいけない。難儀な中にあってもお礼が言えれる時こそ、私は心に力を頂いた時であり、光を頂いて行く事である。しかもこれは限りがないのです。貧争病のない世界、真善美輝くような世界。そういう世界に住みたいと思うて、一生懸命、信心をさせて貰う。所が中々ほんなら、一生懸命信心したからというて、頂けるものではない。本当な事が分かって。
その本当な事に取り組ませて頂いて行くうちに、これが本当だと言う事が、愈々分かってくる。だから信心の稽古というのは、一生が修行だと言う事で御座います。もう是は信心の道に限った事ではありませんけれども、愈々その道の名人達人と言われる様になれば、なるほどその道に精進を致しますように、そういう道に出るという事。所が中々私どもは本当でもない事を、本当と思うて思い違いをしておる事も沢山ございます。いやそれは、先生あなたの言われるのが本当ですけれどもと言うて。
先生の言う事を信じないわけではない。それが本当でしょうけれども、そんな訳にはいけません。身体が言う事を聞きませんと言う事もあります。けれどもその本当から本当を、愈々極めて行くと言う事で御座います。今日行橋の方からご参拝をして参りました方が、続いて同じようなお知らせを受けておる。中々熱心に信心が出来ます。それに様々な人間の難儀というものがお互いございます。問題がある人間関係経済問題、まぁ健康の問題と言う様に、色々ございますが、これは全てが巡りのせいだという。
難儀を感じると言う事は巡りのせいである。心には分かっておるけれども、その分かっておる事を邪魔するもの。それが即ち巡りである。お話を頂けばそうする事が本当だけれども。中々心がすっきりしない。お礼を申し上げる事が本当だけれども、お礼を申し上げる心が生まれてこない。そのお礼を申し上げるその心というものを、分かっておるんですけどもお礼が言えない。そこにね巡りの業と、それは巡りのせいである。けれどもそういう難儀そのものは巡りのせいなんだけれども、如何に巡りとてもです。
いうならばその心までも犯す事は出来ない。自分の心をこまくしたり乱したりするのは、私共自身である。その証拠にはお話を頂いて心が開けてくる。愈々おかげを受けて、実験実証して行く内に、それがすっきりとしてくる。いうなら心が助かると言う事になる。ね。私は金光教の信心、取り分け合楽の信心は心が助かる。是はもうどんなに巡りが深く、どんなに難儀があっても、心の助かる手立てを合楽では教える。
それも教えられてから、すぐ心が助かるというのじゃなくて、実験実証して行くうちに、一つの悟りのようなものでしょうかね。より本当から本当というても、本当と言う事が分かっておっても、本当な事がと感じられない所に、いわば悟りが求められる訳です。どんな苦しい難儀という、またそう思うておる時でも、どっから湧いてくるか分からん様な、元気な生き生きとした心が生まれてくる。
難儀は難儀だけれども、けれども矢張り有難いという心が生まれてくる。是は心が巡りの業でない証拠であって、心は結局自分自身のいうならば、おかげのあるも無きも和賀心であり、心ひとつで全てを作る。その心ひとつが私どもがままにならない。それを心がままになるおかげを頂く手立てが、合楽では説かれる。そして合楽の場合、金光教の信心の場合、心に有難いというものが開けてくる。本当な事が分かってくる。それには必ず本当な事が、おかげが伴うてくるというのが、合楽の信心なんです。
もうこの世では仕方がない。まぁ俗にこの世はいうならば、ままにならぬが浮世。思うようにならぬが浮世と、もう決めてしまっておる。決めておるこの世は苦の世、苦の世界と決めておる。そこで信心によって自分の心が助かる。そしてこの世では仕方がなかったけれども、あの世ではいうならば、極楽世界に住みたいと、まぁ仏教的に説くとそう言う事である。今日の研修の時その事をまぁ話した事ですけども。
本当に自分の心が助かる。自分の心が喜びに満ちてくる溢れてくる。それならばもう必ず人間の幸福の条件は足ろうて来る様になっておるのが、金光教の信心である。もうこの世では仕方がないあの世で。だから中々あの世の事は、私どもでは信じられない。ほんなごっじゃろうか。地獄てん極楽てんて言うてもそんな事があるじゃろうか。もう、この世でと言う事になってくる。そしてほんなら現在ではいわば、地獄極楽はこの世にあってあの世には無いという風に、言う事になってしまったのだけれども。
今合楽でここ二、三日言われるのは、この世のいうならば、難儀というものは、あの世に光をもって行くことのための手立てである。力を頂くための手立てである。この世はだからあの世のための今日があるという風に、二、三日説かれます。ね。まぁこれが今日の合楽で一番本当な事だと。だからおかげがあるの無いのではなくて、自分自身の心が助かる手立てを、本気に、取り組まなきゃならない。
そしてそこに分からせて頂く事は、ほんなら合楽の場合心が助かる、有難いという心には必ずおかげが伴うてくる。願いもせん思いもせん、夢にも思わ無かった様なおかげが、これに伴うてくる。そこでですほんなら自分の心が、この様にになった助かった、喜びが感じられるという。ほんならその魂がその心が、ははぁあの世にも持って行かれるのだなと、分からせて貰うから。いうならばあの世に極楽があるの無いのと言われる。魂の世界にこのまま行けれるんだと。
この世では仕方がない。けれどもそれをまぁこの世では苦しかっても、あの世で楽になればよいという考え方では、中々それを信ずると言う事は出来かねるのじゃないかと思う。そして結局はそんなにあの世の地獄とか、極楽はないと言う様に、決めつけてしまうようになる。愈々合楽でこれが本当だというのは、ね。もうこの世には確かに魂を清めに来ているんだと言う事が一番本当な事だと。だからもう魂を清める事の為に、本気で一生懸命になり、一生懸命に教えを頂き。
教えを成就させて頂く所から、いわゆる合楽の場合は、必ずこれにおかげが伴う。裏付けが出来てくる。だから私は本当な意味においての、死生の安心というのも生まれてくる、頂けるのではないかと思う。この調子で自分の心が愈々、大きくなり豊かになり清まって行くと言う事に、精進すると言う事。それはあの世に行く事のために、この世があると言う事が分かると言う事。ね。
愈々本気でいうなら本心の玉に心に取り組ませて頂く。信心させて貰うと確かに生き生きとしてくる。その生き生きとした心で神様に向かう。神様との本当の交流が生まれてくる。そういうおかげに浸らせて頂いて、そのおかげを愈々本当なものに、より大きい深いものにして行く楽しみが、一生が修行じゃと仰せられる。その一生が苦しい事だではなくて、そういう有難いおかげの世界を、広げていくための修行が、楽しゅう有難く手立てをもってなさせて頂くと言う事になるのです。
この頃月次祭たんべんに聞いて頂くおかげですけども。北島さんの事ですよねぇ。随分長く合楽にご神縁を頂いておられました。それこそおかげを受けなければならん。商売繁盛するようにという信心から。自分が病気になられたしかもそれが不治の病気であるという事が分かった。もう者と注射で保って行く以外には無いと言う事が分かった。権威ある病院で先生からそう言われたから、もうそれこそその事が苦になった。
もうそれこそノイローゼ寸前。まぁあなたのは精神科に行った方が早いと、とにかく夜が眠られないと言う様な事になってきた。その頃になったらもう周囲から、様々ないうなら障害親戚のものが、それを本当な事と思わねばならないように、例えば金光様に信心一本になったから、こう言う事になったと言われると。はぁそうかなとこの方は、段々金光様一本に、いろんな神様、仏様を拝んでおられたけど、一本になさったんです。そう言う事をするから、こう言う事になったんだと。
親戚の方達が言われると、そうかなぁともやっぱ思う。そういうたんべんに迷いが起こってくる。迷いが起こってくるとお参りをされて、その事をお話されるから、もうそれこそまぁ大きな声で、私が叱るようにそう言う事の、迷い信心に迷うてはならん、という風に、まぁ申しましたけれども。中々すっきりしませんでしたけれども。神様から直接お知らせを頂かれるようになった。私も次々と頂かれる御教えを、素晴らしいと思いますけれども。私忘れてしまったけれども。
忘れられないのはある時のお夢の中に高い梯子がある。その梯子に上ろうと思うけれども、何かゆらゆらしたような風で、怖くて上られない。その上り口の所に沢山な菊の花を売っておるお店とスイトピーかね、という花を売っておるのがあった。そこでスイトピーを買うて帰る所を頂いたというお知らせであった。まさしく神様がもの言うて下さるような感じである。菊の花というならばもう合楽の信心。合楽の信心によって頂く喜びと言う事を菊の花のお知らせである。
スイトピーというのは例えば不健康な人が、健康になりたいまめになりたいと言うて、ただおかげを頂くために一生懸命参ってくる。もうとにかく夜が眠られない。もうとにかく私の病気は一生不治の病気である。もう薬と注射によらなければ自分は生きられない。そういう中にあっていうならば、ですからまめになる事だけを願うておったけれども、ね。その御理解が、まめも頂かなきゃならないけれど、健康も頂かなきゃならないけれども、それよりも、菊の花を買うて帰れるようになると。
心に喜びが生まれてくると。今まで通れなかった所が、通れるようになる。危険と思うておったその梯子も、楽に楽しゅう登っていける事が出来るんだという御理解を頂かれた頃から、もういうならば信心を頂く喜びを目指されるようになった。ね。愈々その信心を高めてお出でられて、この前の月次祭の前の日だったでしょうかね。病院にお出でられた所がいわゆる、もう現代の医学では不治と言われる、治らないと言われる薬と駐車で保つよりほかに無いと言われる病気がすっかり治っておった。
医者の方が不思議で不思議でたまらんとこう言う。自分もそのおかげを頂いたその喜びで、いわば愈々自分のお仕事の方へ掛かられるようになった。これは昨日でしたでしょうか。お願いをして集金にお出でられた。所がそこが不在であった。また次の家にやらせて頂いた。そしたらそこでぱったりとその方に会うた。その方にいわば集金に行った旨をすると、とにかく月賦にて少しずつ払わせてくれと言う様な事であった。
所が次の集金に行った所の御主人が、そんな事言わずにもう一気に払ってしまっときなさい。僕の預金から引き出して払っときなさいと、まぁ言われてまぁそれこそ、一挙両得というか。そこでまぁそう言う様な不思議な働きが、これは願わんでも頼まんでも起こって来る様になって来た。これはもう本当に菊の花だけを求めて行きよれば、まめの方は神様が引き受けて下さる。経済の上にも人間関係の上にも、そういう問題はこの菊の花を求めての信心にならせて頂けば、おかげが受けられる事が少し分かってきた。
だからこの信心を愈々極めて行こう。そういう信心の喜びをもってすると、例えば親先生が言われる事を信じれるようになる。これは昨日一昨日の研修の時でした。今年学院から帰って参りました。末永欽也君という先生がおります。が纏めておるのが見事な纏めをしておった。それは今申しますような、あの世はこの世のためにあると言う様な意味の御理解でしたから、それをまぁ長々と見事にまとめておった。二十歳そこそこの先生が、ご結界でお参りをしてくる信者に、まぁ難儀だろうけれどもね。
しっかり信心してお徳を受けなさい。そのお徳こそがあの世に持っても行かれるのである。本当の事を言うたらこの世はあの世でのために、この世があるのですよと。まぁだ行った事もないあの世の事を、若い二十歳ぐらいの先生が、皆さんに話を聞いて貰っても、なかなかもって、それをあの若い先生は、年寄りに白ごつばっかり言いなさると言う様な事になりかねないだろう。けれどもねけれども私も分からん。分からんけれども親先生は斯く言われると、例えば私がそこに使われてくる。
親先生はもうこの世でのいうならば、修行はあの世のための修行である。この世と言う事はあの世のために、この世があるんだと親先生は説かれる。私は親先生の言われる事を信ずる。これならば伝わって行くんじゃないかと思う。皆さんの場合でも同じ事。あの世この世と連れても、見にも行った事のない分からん事を、例えばいうてもです。ね。ここではね皆さんがほんなら、実験実証させて貰うて少しでも本当な事になると、今の北川さんじゃないですけれども、本当のおかげになってくる。
いわば治らんはずのものが、治るおかげにもなれば、開けんはずの道が開けて来る様な働きが起こってくるんです。だからそれが段々度重なって行くうちに、いうならばなるほど親先生の言われる事をと、信ずる事が出来るようになる。そこからねいうならばあの世のために、この世があるんだ。してみるとほんならこの世を愈々大切にしなければならない。それを合楽では愈々成り行きを大切にしなければならんと言う事になるのです。そういう深い意味合いがあっての、成り行きを大切にする。
おかげを頂かなければならんから、成り行きを大切にするのではない。そういう深いもうギリギリ絶対のものを目指しての、成り行きを大切にするのであり、成り行きを尊ぶのであり、黙って治めるという手立てを、愈々身につけて行かなければならん。いわばつけて行くことの、楽しみと喜びというものが、段々分かってくるようになる。もうとにかくそげん所までは登れないと思っておった。いうならば梯子が段々、登れて行くようになる。視野が広うなってくる。
また上の段階に進んで行けれる楽しみ。成程一生が修行と仰せられるのは、そう言う事ではなかろうか。そこまで行かなければ、もう一生があの人は苦労であった。あの人は言いござった。もうこの世では苦労だけれども、あの世で極楽に行く稽古をしとかにゃならんとまぁ例えば、言うてる人があるとするならばです。こんな哀れな話は無い。ね。果たしてこの世でそういう苦しみをさせて頂く、そのままであの世に、極楽に行ける筈がないと、私は悟るらにゃいけん。
この世で魂が助かって生き生きと、喜びに溢れてくる。そういう心がこのまま、あの世に行けるという風に、分からせて貰うから、この世の事を大切にしなければならない。それをほんなら合楽では、成り行きを大切にしなければならんという風に言うのです。これは、分かっただけじゃなくて、それを頂いただけではなくて、頂いたり頂かなかったりじゃなくてそれを本気で貫かなければいけません。
二、三日前日、今学院に行ってります、学院生の一人から手紙が参りました。行きがけに、学院でのいうならばひとつの心がけ、信心の芯になるものを何か一言、これに書いて下さいというて色紙をもってきた。で私は神様にお願いをさせて頂きましたら、頂きますという心と頂きました。しかもひらがなです。「いただきますと言う心」まぁ何時も言うとる言葉で言うならば、愈々成り行きを大切にして頂きなさい。頂くにも尊び頂くのだという事になりますけれども。
言葉が少し変わるとまた感じが違うてくる。何時も頂いておる事ですけれども、ちょっと言葉が変わり、所謂イメージが変わった来るんです。二、三日前の手紙に、沢山な人の中にもまれておるのですから、色々問題が無いじゃない。色々問題がある。けれどもね頂きますという心、頂きますという心と言う事を思うただけで、それを見ただけで私の心は、合楽におったときと同じ心持で、修行が出来ますと書いてあるんです。これを例えば学院に行っておる間、これを貫いたらお徳を受けるだろうと思いますね。
見やすうだからひらがなでと言う事は、見やすうと言う事であろうと思うんです。見やすう見やすうそれが、頂けるようになる。気張らんでも良い。とにかく頂きます。それこそ夏もお小袖である。要らんと思うものでも、下さるのならば頂こうという。いや要らんと言う所ではない。それは、迷惑だ困るんだと言う事であっても、頂きますという心あらば、障る事なしと仰せられる。障らない。それが愈々力になってくる。
そういう信心をいうならば、本気で自分の血に肉にして参りますとね、いわゆる実験をさせて頂きますと必ず実証が生まれてくる。それこそ合楽と同じような心の状態で修行が出来るというおかげを受けておる。そういうやっぱり教えというものは、有難いな生き生きとして、自分の心の中に頂ける時に、教えを頂いておる事の有難い教えを、守らせて頂いておる事の有難さが愈々募ってくる。その有難さをもっていうならば、本当な事を聞きますから、そうだろうと言う事になってくる。
この世で様々な難儀、その難儀からおかげ頂かんならんから一生懸命。いうならその今日行橋の方達が、おかげ頂いとりますように、ね。難儀それはやはり巡りのせいだ。けれどもいかに巡りがあのお知らせにですね、自分方の家の床下に、それこそ大蛇のように大きな蛇が、そこには泥の中じゃから鯉が泳いどる筈はないのに鯉が一杯おる。その鯉を片っ端から食べて行っておるという、お知らせを受けたというのである。確かにね巡りが例えば大蛇のように大きな巡りがある。
いうならば百の巡りがあるとする。それに鯉を小さい鯉を徳と仰るから信心の徳を。それが例えば五十の徳であるとすると、これは正邪ですけれども正しい事が、いわばまかり通らんのです。正しい事であってもこの巡りが大きいと。百と百の力ならば必ず正邪、これはもう正しい方が勝つ、これはもう法則なんです。正と邪が同じ勢いとか力であるならば、正しいものが勝つ事になっておるけれども、正しいというても正しいものが、いうなら八十である場合ば矢張り、その巡りの方が勝ってしまう。
本当の事が分かっておっても巡りの方に押し負かされてしまって、言うなら巡りの支配下になってしまわなきゃならんと言う事になるのです。ですからそういう巡りに勝つ心というのは、これは心そのものを巡りが対する事は出来ない。だから心だけは自由自在に使えるんですけれども。その自由自在に使えれる手立てが合楽理念である。それ喜びをもって受け止めて行く。
この世それはあの世のためにこの世がある。まぁ一番本当な事が、皆さんが分かるとするか、分からんにしても先生がああ言われるからと、先生を信ずる心にならせて頂いたら、愈々心の中に喜びの心、喜びの信心が育って行く事になります。喜びの信心を育てて行く手立てをね。日々の御理解によらせて頂かなきゃならん。そこに北川さんのお話じゃないですけれども現代の医学では。
どうにも出来ないというその病気が治っておる。もう取れん筈であったものがいうならば、思いもかけない所で、集金なら集金が頂けれる事になると言う様な働きがね。私どもの周辺に起きてくる。だからこりゃもっともっと、心豊かに大きくもっともっと本当の事が分かったら、もっともっと本当のおかげが頂けるだろうという楽しみが生まれてくる。その楽しみをもって信心を愈々高めて行くと言う所にです。所謂より本当な成程この心をこのまま、この魂がこのままあの世に行く
(途中切れ)